更新日:2024年5月29日
今から1500年ほど前の紀元527年、八女地方を拠点とする豪族筑紫君磐井(ちくしのきみいわい)が、日本列島を支配していたヤマト王権に対して反乱を起こすという一大事件が起こりました。
奮闘むなしく磐井は敗れてしまうのですが、この独立戦争ともいわれる内乱が起こった背景には、たび重なる朝鮮半島出兵への軍役負担に対し、北部九州の豪族たちの不満があったのではないか、という考えがあります。
宗像君がこのような筑紫君の反乱に際し、どのような行動をとったのかは史料には全く見えませんが、少なくとも反乱に加担することはなかったと考えられます。
なぜならば、7世紀の飛鳥時代には宗像君徳善(とくぜん)の娘、尼子娘(あまこのいらつめ)が大海人皇子(おおあまのみこ・のちの天武天皇)に嫁いでいることからみても明らかです。
中央政権への謀反は、たとえ百年前であろうとも記録・記憶されるものであり、天皇家がそのような地方豪族と姻戚関係を築くことなどありえません。
宗像君としては、北部九州の豪族の一員としてヤマト王権の支配に不満を持つ磐井の心情を理解したとしても歴史の岐路となる場面では、海の豪族として王権に協力することで、領地・領民の栄える道を選択したのでしょう。
この歴史の選択をした人物は、福津市須多田にある全長80メートルの大型前方後円墳、須多田天降天神社古墳(すだたあまふりじんじゃこふん)に埋葬されたのではないかと考えられています。
九州歴史資料館では、磐井の乱と北部九州の豪族たちとの関わりをドキュメンタリー風にまとめた動画「古代史チャンネル」をYouTubeで公開しています。
海の道むなかた館が制作に協力した「宗像地域編」が新しく掲載されましたので見てください。
(文化財職員・白木)
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