更新日:2021年7月29日
『新修宗像市史』中世部会から
中世部会では前回の『宗像市史』で調査した資料の再調査と、新しい資料の発見のため市内外で調査を進めています。今回は、山田地蔵尊増福禅院(山田)の所蔵資料を紹介します。
宗像氏貞の寄進状
永禄2(1559)年に出された宗像氏貞寄進状を紹介します。宗像氏貞は宗像社(現在の宗像大社)の大宮司(神職の長)で、岳山城(蔦岳城・現在の城山)を居城とし、最盛期には宗像郡から遠賀郡・鞍手郡・糟屋郡の一部と浦・島を支配する筑前国の有力な領主でした。氏貞は天文14(1545)年に現在の山口市で生まれたとされていますので、永禄2年は15歳になります。
戦国時代の宗像氏は山口を本拠にする戦国大名大内氏に従っていましたが、天文20(1551)年に大内義隆が重臣である陶隆房(晴賢)(すえたかふさ、はるかた)の挙兵により滅びます。この時、宗像氏の当主も義隆と共に滅んだために、後継者をめぐって一族の間で争いがおこります。隆房に擁立された7歳の氏貞は、争いに勝って大宮司となっています。寄進状に書かれている妙秀と妙安は死者におくられた名(戒名)ですが、二人は争いに巻き込まれ、氏貞方に殺害された一族の母親と娘です。
成長した氏貞は、2人の墓がある増福庵(増福院)へ二町の田地を寄付する寄進状を出し、二人の冥福を祈るため毎日の読経・礼拝を命じていることが分かります。
宗像氏貞の花押
ところで、氏貞が出した文書(もんじょ)は前回の『宗像市史』では136点収録されています(注1)。このうち53点が当時の文書です。確認できる氏貞の最初の文書は、弘治3(1557)年に出されていますが、現存している文書ではこの文書が一番古いものです。氏貞の花押(かおう・人名の下に書く現在のサイン)は氏貞自身が書いたものですが、花押は時代によって変遷します。月日だけで年号が書かれていない文書もあるので、花押の形はいつごろ出されたのかを知る大事な手掛かりになります。増福院所蔵の永禄3(1560)年に書かれた氏貞の花押と比較すると、違いが明らかです。
(注1) 疑問のある文書は除く
六地蔵と氏貞坐像
氏貞は天正14(1586)年に42歳で亡くなります。増福院には氏貞の死後、妻が寄進した六体の地蔵菩薩が祭られています。六体のうち二体は妙秀・妙安、残る四体は一緒に殺害された四人の侍女になります。氏貞の妻も、犠牲者の冥福を祈っていることが分かります。
現在、地蔵菩薩は年に一度、4月23日の晩に開帳されます。地蔵菩薩を納める厨子(ずし)には、宗像氏の家紋である「楢の折枝(ならのおりえだ)」が付いています。厨子も地蔵菩薩とともに作られた可能性があります。
江戸時代の嘉永3(1850)年には、増福院の得友和尚が氏貞坐像を作製しています。台座の裏には「再建当院開基即心院殿御像」と書かれています。即心院殿とは氏貞のことです。再建とあることから、増福院には氏貞坐像があったのかもしれません。
(新修宗像市史編集委員会中世部会長・桑田和明)
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