メニューにジャンプコンテンツにジャンプ

トップページ > 時間旅行ムナカタ > 時間旅行ムナカタバックナンバー > 時間旅行ムナカタ第50回「いせきんぐ宗像へのご招待(前編)」

時間旅行ムナカタ第50回「いせきんぐ宗像へのご招待(前編)」

更新日:2021年7月29日

 田熊石畑遺跡(たぐまいしはたけいせき)歴史公園、愛称を「いせきんぐ宗像」といいます。平成25年に市が愛称を公募し、当時、自由ヶ丘南小6年の古上風太さんの作品が採用されました。日本全国見回しても、このようなユニークな愛称を持つ歴史公園はないでしょう。今回は、7月1日(水曜日)に全面オープンするいせきんぐ宗像を、前編・後編に分けて紹介します。

田熊石畑遺跡ってなに?

 今からおよそ2200年前の弥生時代中期(紀元前2世紀ごろ)、田熊の地に存在した有力な「ムラ」です。平成20年に発掘調査が実施され、弥生時代の貴重品の銅剣・銅矛・銅戈(どうか)という武器形青銅器が、1つの墓域から15点も出土したことから注目され、平成22年2月に国の史跡に指定されました。

宗像人(むなかたびと)のルーツともいえる遺跡で、北部九州を代表する有力者集団の一つが、すでにこの地に誕生していたことが分かりました。

遺跡の始まり

 この地に人々が住み始め、ムラをつくり始めたのは、弥生時代前期の終わり(紀元前3世紀ごろ)です。まず、遺跡が分布する台地の東側を流れる松本川に面して環濠(集落の回りにめぐらした堀)が築かれます。中は、住まいではなく貯蔵穴(ちょぞうけつ)という地下式穴倉があり、ムラの財産を守る施設です。

船着き場もこのすぐ近くに推定していますが、その付近からは、朝鮮半島や瀬戸内系の土器が出土することから、釣川・玄界灘を通じた各地との活発な交流がうかがえます。当時の人々の行動範囲は、今の私たちが思うより、ずっと広かったようです。

 弥生の戦士誕生

 遺跡の最盛期は、区画墓が築かれた弥生時代中期前半(紀元前2世紀ごろ)です。最初に発見された1号墓は、武器形青銅器が5点という日本最多級の数を持ち、この集団がただ者ではないと予想されました。予想にたがわず、調査した6基全ての墓から、武器形青銅器が出土しました。宗像地域をまとめるくらいの力を持つ戦士集団と考えられます。

 残された課題

 有力者集団の眠る区画墓で、調査が終わったのは全体の一部です。1号墓を超える有力人物の墓が未発見の可能性や、弥生時代後期から古墳時代初頭にかけての卑弥呼(ひみこ)の時代(3世紀)の様子がよく分かっていないことも多くあり、これからの謎解きが楽しみですね。

次回は、整備された「いせきんぐ宗像」を紹介します

(文化財職員・白木英敏)

 

竪穴住居
復元された竪穴住居

このページに関するアンケート

情報は役に立ちましたか?
このページは探しやすかったですか?

このアンケートフォームは暗号化に対応していないため、個人情報等は入力しないでください。

このページに関する問い合わせ先

教育部 世界遺産課
場所:海の道むなかた館
電話番号:0940-62-2600
ファクス番号:0940-62-2601