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時間旅行ムナカタ第25回「色定法師と中世博多貿易商人」

更新日:2021年7月28日

戦乱のさなか、万民の心を安らかに

「祇園精舎の鐘の声」。「平家物語」の冒頭の一節で、「諸行無常の響きあり」と続きます。「諸行無常」がどのような響きであったかは計り知れませんが、今から、約800年前の平安時代終わりから鎌倉時代の初めごろにタイムスリップすると、その声が聞こえてきます。

この時代は、「保元・平治の乱」や「源平合戦」などの兵火に巻き込まれ、多くの尊い命が失われました。町は荒廃し、夜盗が横行、人々の泣き叫ぶ声や嘆き悲しむ声が「諸行無常」の声となって鳴り響いていました。

世の中の全てのものは移ろい行き、形あるものは必ず壊れてなくなってしまう「諸行無常」。戦乱で何もかも失い、打ちひしがれる万民の声に耳を傾け、全ての万民の心を安らかな気持ちにしようと力を尽くした人が、ここ宗像の地にいました。

その人は、「色定法師」と呼ばれ、平安時代の終わりごろ、平治元(1159)年に宗像神社の社僧・兼祐(けんゆう)の子として生まれました。鎌倉時代の始めごろの仁治3(1242)年11月6日、84歳で亡くなるまで、「諸行無常」の声が鳴り響く時代を生きてきたのです。

色定法師の偉業

  • 色定法師2
    県指定文化財色定法師座像

色定法師は、子どものころは「良祐(りょうゆう)」と名乗り、宗像神社の学頭(現在の学校長)・良印(りょういん)の下で修行しました。「法華経(ほけきょう)を手に取れば、その手が仏となり、口に唱えれば、この口がすぐに仏となる。天にある月が東の端に昇れば、そのときその影がすぐに水に映るように法華経にふれる全てのものが仏になれる」という法華経の教えも含め、「壇ノ浦合戦」で平家が滅んだ2年後の文治3(1187)年4月1日、29歳の時に、全ての経文(大蔵経=一切経)を一人で書き写す修行を始めました。  この修行で、時の関白九条兼実はもとより、宗像神社本家、宗像大宮司氏実(うじさね)とその妻子、亡き師匠・良印や祖父母、万民に至るまでが、心の安らぎを持ち、来世は必ず極楽浄土に行けるようにと願いました。

一切経の唐本(中国版)・1716部5048巻を、数人が書き写すことはあっても、一人で書き写すことはあまりなく、色定法師は修行の願いが達成できるように、この経典を一人で、42年かけて書き写したのです。そのほとんどが、現在に残っているので、大変貴重です。

また、仁治2(1241)年、色定法師の偉業達成を称える「大日本国鎮西筑前州宗像第一宮座主色定大法師、一切経律一筆書写行人」と記された彫像(色定法師座像)が作られました。宗像第一宮は、現在の宗像大社辺津宮であり、色定法師は、そこの僧侶の座首(僧侶の最高位)であったことが分かります。

偉業を支えた商人

色定法師の偉業は、多くの人に支えられ成し遂げられたものでした。特に、経典を書き写すために必要な紙、筆や墨などは当時は高額なもので、個人で調達するには経済的な支えが必要不可欠でした。色定法師の願掛けのうち、「万民に至るまでが、心の安らぎを持ち、来世は必ず極楽浄土に行けるようになる」というものが、当時の中国の宋の「綱首(ごうしゅ)=貿易商人」たちに支持され、紙を「張成(ちょうせい)」、墨を「李栄(りえい)」という人から寄進されたことが、「一筆一切経」の巻末に記されています。これらの商人は、博多を中心とした日宋貿易で巨万の富を得、特に、「張氏」「李氏」は宗像大宮司と深い関係があったと考えられます。

現在、宗像大社神宝館に収蔵する「一筆一切経」4342巻は、国指定重要文化財です。「色定法師座像」は県指定文化財で、色定法師の偉業とともに大切に保存されています。

(文化財職員・安部裕久)

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