更新日:2021年7月28日
終戦後、目覚しい復興を遂げた日本は、高度経済成長の波に乗り、生活が豊かになりました。
特に、道路が整備されたことで、物流の中心が鉄道からトラックに急速に移り変わり、各家庭への自動車の普及は人々の行動範囲を広げました。これは、郊外に大型店を進出する契機となるなど、市民の生活様式は一変しました。今回は、移り行く宗像の原風景を地域ごとに紹介します。
まちの暮らし
昭和36年に鹿児島本線が電化され、高度経済成長と併せるように旧宗像市域では、昭和40年ごろに森林都市団地(自由ヶ丘)や住宅公団団地(日の里)などが造成されました。また、各家庭に電気、ガス、水道が普及し、「生活革命」といわれるように生活様式が大きく変化しました。服装や食事も洋風化が進みました。
農村の暮らし
旧宗像市や旧玄海町の米作りを主とした農村では、牛や馬を使って田を耕し、除草や収穫などは人力で実施していました。村の人々が協力し、一列に並んで田植えをしていた様子は今では懐かしい光景です。
昭和40年代になると、トラクターや田植え機、コンバインなどの導入で、人力での農作業から機械での農作業へと変わりました。それとともに、農村は専業農家から兼業農家へ移りはじめ、「じいちゃん・ばあちゃん・母ちゃん」の3人が農作業の主体を担う「三ちゃん農業」と呼ばれる農家が増えました。また、農村にも電化製品が普及し、農村の風景も大きく変わりました。
漁村の暮らし
昭和に入り、漁船が本格的に機械化されるまでは、木造の帆舟や艪舟(ろぶね)で漁をしていたため、鐘崎や神湊の漁村には船を造り、修理をする船大工や工具、釘などを一つ一つ手作りする鍛冶屋がありました。しかし、船が機械化・大型化し、強化プラスチックなどで造られるようになったため、徐々に数を減らし、今残っているのはわずかです。
また、自動車や冷蔵設備がなかったころは魚介類の長期保存が難しく、消費地が限定されていました。そのため、漁師が水揚げした魚介類をすぐに売れるように、魚商を営む家が各漁村にありました。しかし、自動車や冷蔵設備の発達で、遠くまで新鮮な魚を運べるようになったことや、大型スーパーの進出で、魚商を営む家もほとんど見なくなりました。
島の暮らし
大島や地島などの島の暮らしは、漁村と農村の生活を併せ持つ暮らしといえますが、島を出るためには船が必要で、交通手段としての渡船が欠かせません。
大島では、神湊と結ぶ渡船業が江戸時代から営まれています。明治時代には櫓(ろ)をこぎ、沖合で帆に風を受け、約4時間かけて渡っていたようです。
地島の渡船は、平成24年に神湊航路になりましたが、それまでは鐘崎との間で運航していました。地島の海上交通の歴史は古く、江戸時代からありました。現在でも、神湊から大島と地島に定期運航している渡船は、欠かすことのできない交通手段となっています。
(文化財職員・判田博明)
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