更新日:2021年7月28日
最先端技術の導入
日本での土器作りの開始は、縄文時代(約1万3000年前)にさかのぼります。縄文土器は、粘土をひも状に伸ばして積み上げ、形を作り焼いたものです。この技法は、弥生時代にも引き継がれ、弥生土器や土師器(はじき)が作られていきます。
古墳時代の中期(5世紀)になると、土器作りに新たな技術が導入されます。今でも焼き物づくりには欠かせない「ろくろ」と登り窯を使った土器生産技術です。「ろくろ」といっても、足で蹴って回したり手で回したりする単純なものですが、形の整った薄い土器を作ることや土器の大量生産が可能となりました。
登り窯は、窖窯(あながま)とも呼ばれ、山の斜面などの傾斜地を利用して造られました。縄文土器や弥生土器が約800度の温度で焼かれていたのに対し、登り窯では1000度以上の高温で焼くことができるため、より硬い土器が作られるようになりました。
須恵器の誕生
これらの技術から誕生したのが須恵器です。登り窯によって高温で焼かれ、最後に薪を燃やすたき口と、煙突である煙出をふさいで酸素が窯の中に入らないようにする還元焼成という焼き方をします。このようにして焼くことで、硬い灰色の土器となります。
須恵器の源流は、朝鮮半島南部の陶質(とうしつ)土器と考えられ、「ろくろ」や登り窯の技術を持って日本に渡来した人たちが生産を開始したようです。生産が開始されたころは、現在の筑前町や筑紫野市、みやこ町、近畿地方に窯が造られました。やがて、四国や中部地方、東北地方へと広がり、全国で作られ使用されるようになります。
縄文土器が深鉢(ふかばち)と浅鉢(あさばち)、弥生土器や土師器が壺(つぼ)、甕(かめ)、高杯(たかつき)、器台(きだい)など少ない器種であったのに対し、須恵器には壺、甕、高杯、坏身(つきみ)、蓋(ふた)、器台、ハソウ、取手の付いたジョッキ形の土器やコップ形の土器、提瓶(さげべ)、平瓶(ひらべ)、皿など器種も豊富になりました。このように、さまざまな形や用途の須恵器は、日用品だけでなく古墳の副葬品や祭りにも使用されるようになります。
多くの須恵器が出土
本市では、須恵器が焼かれて産地となっていたため、古墳時代の集落跡や古墳からも多くの須恵器が出土しています。市内には「須恵」という地名があります。この須恵という地名が須恵器に由来するものかは別として、須恵や稲元、三郎丸では須恵器を焼いた登り窯の跡が発掘され、多くの須恵器が出土しました。
これらの窯で須恵器が焼かれるようになったのは6世紀のことで、市内にここで焼かれた須恵器が供給されたと考えられています。この時、宗像の人々を率いて沖ノ島祭祀(さいし)を担った宗像君一族も、これらの窯で焼かれた須恵器を使って食事をしたのではないでしょうか。
不思議な須恵器
三郎丸堂ノ上C遺跡で調査された登り窯からは、不思議な須恵器が出土。よく見る灰色の硬い須恵器と形はそっくりですが、黄色く柔らかな状態でした。窯の中に並べられ、焼かれる直前に窯の天井が崩れ、約1400年間、粘土のまま焼かれなかったようです。
現在、海の道むなかた館では、この不思議な黄色い須恵器を展示中です。ぜひ、実物を見に来てください。
(文化財職員・沖田正大)
三郎丸堂ノ上C遺跡出土の未焼成須恵器
須恵須賀浦遺跡の登り窯
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