更新日:2021年7月28日
これまで2回にわたって、宗像郷土館の開館から閉館までをたどってきました。当時の宗像高等女学校教師・田中幸夫先生の尽力で華々しく開館した郷土館も、戦後の混乱などでわずか10年余りで閉館し、1974(昭和49)年ごろには建物も取り壊されてしまいます。一方で、郷土館には、大規模開発以前の宗像で集められた4000点余りの郷土の宝といえる郷土資料が収集・保管されていました。これらの資料は、郷土館の閉館後どうなったのでしょうか。最終回の今回は、郷土資料のその後に迫ります。
郷土館資料の再生
郷土館内にあった郷土資料は、閉館状態だった1965(昭和40)年ごろから、宗像高校へ移されました。資料は当時、同校の社会科教諭・正木喜三郎さんを中心に、社会科の教諭や郷土部の生徒の手で旧家庭科室に保管されました。資料に付いたほこりやごみを一点一点丁寧に取り除き、熱心に資料を整理しました。
一方では、寄贈された資料が、いつの間にか勝手に寄贈者のもとへ引き取られてしまい、資料の散逸につながりました。これは、資料そのものの重要性に十分な認識と知識を持っておくことがいかに大切かということを物語っています。
また、そのころ、旧家庭科室の窓ガラスや陳列ケースが壊される事件が続発したということです。正木先生はこの様子を見て、資料の管理に悩んでいました。しかし、いち早く郷土資料の重要性を認識して取り組んだ整理作業は、荒廃した郷土館に放置されたままの資料の散逸を防ぐだけではなく、忘れ去られようとした郷土資料を再生させるための第一歩として意義あるものだったといえるでしょう。
正木先生は1975(昭和50)年に東海大学へ赴任しますが、その後、宗像高校の教諭だった占部玄海(はるみ)さんや中尾徹さんによって旧家庭科室内に保管されていた郷土資料が再整理されました。そして、その重要性を示すために1984(昭和59)年、占部先生の自費で図版・目録が出版されました。この時に再整理された郷土資料は、視聴覚ホールへ移されて保管されることになりますが、後に整理された資料を見た正木先生は、とても感動したそうです。
郷土・宗像への熱い思い
平成になって、郷土資料の重要性が再認識される機会が訪れます。滋賀県野洲市教育委員会の花田勝広さんと自由ヶ丘南小学校教頭の鎌田隆徳さんは、考古資料について遺物の実測や出土地点の聞き取り調査、追跡調査を実施しました。
この調査で、これまで盗難に遭ったと考えられていた資料の多くが、現在も宗像高校に保管されていることから、「郷土館に寄贈した資料が盗まれた」「田中先生に預けたものがなくなった」などと言われていたことが誤解だったことを明らかにしました。
以前は、「田中先生が郷土館を閉館にした」といううわさまで流れていたそうです。
現在、再生された郷土資料の多くは、田中先生の遺志を引き継いだ多くの人々の尽力によって、宗像高校内の四塚会館に保管・展示され、一般の人々にも公開されています。田中先生や郷土館資料の再生作業に臨んだ人々は、郷土・宗像に対して、誰にも負けない熱い思いを持っていたことでしょう。
今年4月に開館する郷土文化学習交流館「海の道むなかた館」も、郷土文化を大切にし、多くの市民のみなさんに郷土・宗像を知ってもらえるよう、私たちも熱い思いで開館に臨みたいと思います。【おわり】
(文化財職員・山田広幸)
四塚会館内にある展示室
整理された貴重な郷土資料
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