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時間旅行ムナカタ第2回金が出でた!宗像は黄金のまち

更新日:2021年7月28日

時間旅行ムナカタ第2回

金が出た!宗像は黄金のまち

金と人類

今回は金(きん)にまつわる話です。金は古くから人類と関わりの深い金属として、紀元前3000年から4000年代に使われ始めたとされます。希少性と永遠の輝きで、世界の人々を魅了し、資産的価値は今日でも変わりません。

わが国でも、紀元57年に漢(中国)から倭(日本)へ送られた「漢委奴国王」の金印以降、人々の好む貴金属として珍重され、装身具や刀の装具・馬具などに用いられてきました。

九州は黄金の島

現在、日本の金資源の約47パーセントが九州にあることがわかっています。特に1980年代以降は、鹿児島県の菱刈(ひしかり)鉱山が突出し、わが国トップの金産出量を誇るのは九州地区です。

ただし、鹿児島県や大分県、長崎県が金鉱床分布の中心で、北部九州に金鉱山はほとんど見あたりません。

宗像の金鉱山

ところが、昔、宗像が金採掘でにぎわっていた頃があります。その一つ、河東鉱山(福崎区)は、江戸時代に黒田藩の宗像金山として開発されました。昭和4年頃には、肉眼で金と認められるものも出土したそうです。

一般に金鉱山というには、1000キロ当たり0.5グラムの金が産出しなければ採算が合いません。さらに、人間の目で金鉱石中に金が確認されるのは1000キロ当たり30グラム以上という超高品位であることから、河東鉱山はかなり有望な金鉱山とされていたのでしょう。

この他にも、湯川山麓(田野・上八区)、孔大寺山麓(池田区)で、江戸時代後期の天保年間頃に黒田藩の御用金として盛んに採掘されていました。この地域には、壇ノ浦の合戦を生き延びた平信盛が釣山(つりやま)で金鉱を発見したという話も伝わるなど、金採掘にまつわる長い歴史を感じさせます。

鉱山坑道を発見

鉱山坑道を発見孔大寺山麓で進められていた砂防ダム建設工事現場で平成20年11月、金銀などを採掘していたと推定される坑道の入り口跡を発見しました。

入り口の両面は石垣で固めた丁寧な造りで、池田笹ヶ尾遺跡と名付けて調査を開始しました。地面にトロッコの枕木とレールの溝跡が見つかり、明治から昭和初期頃にかけて使われたようです。

辺りを見回すと、人頭大の石が大量に散乱しています。市の金鉱床は、白亜紀末期の約1億年前につくられた金や銀、亜鉛、鉛などを含む石英脈であることから、金鉱石が転がっているのではと付近を探索しました。残念ながら、取り残されたごくわずかな石英片を認めるだけでした。

夢の跡

夢の跡宗像のゴールドラッシュは採算性の問題などで衰退し、昭和40年代には全て終わりを迎えました。上八区には往時をしのぶ旧跡の一つに、山の神と呼ばれる小さな祠(ほこら)があります。安政元年(1854年)に創立され、大山祗神(おおやまつみのかみ)や金山神らを祭る鉱山関係者の守護神でした。

また、宗像大社神宝館横の広場の植え込みの中に、鉱石を砕くための「金ひきうす」がひっそりと置かれ、黄金に魅了された人々の夢に思いをはせることができます。

(文化財職員・白木英敏)

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