更新日:2021年7月29日
立石良雄
宗像出身の事業家といえば、赤間出身の出光佐三が有名です。しかし、くしくも同時期同業種で成功した名残出身の事業家・立石(たていし)良雄(よしお)という人物がいたことを知っていますか。
立石良雄は、明治16(1883)年8月23日に、赤間町名残(現・赤間地区名残)の農家の四男として生まれました。赤間尋常小学校(現・赤間小学校)在籍時は、2学年下に出光佐三がいました。卒業後、大阪のろうそく問屋・松尾商店に奉公人として入店します。
やがて商才を発揮し、番頭として店を取り仕切るようになると、明治44(1911)年に、朝鮮(現・韓国)の釜山で松尾商店の支店開業を任されます。ここでもその才能を発揮し、ろうそくだけでなく石油業界にも進出しました。
大正8(1919)年、松尾商店釜山支店の事業一切を譲渡され「立石良雄商店」を設立します。
事業は拡大し続け、昭和4(1929)年には「株式会社立石商店」となり、自動車の販売や製油所の操業も手掛け、朝鮮経済界の有力者として朝鮮商工会議所副会頭や地方議員など、さまざまなポストを務めました。
創業時の立石良雄商店
立石商店本店
名残に立つ記念碑
しかし、多忙を極めつつも各事業を順調に進めていたさなかの昭和16(1941)年9月2日、要務のため訪れた京城(けいじょう)(現・ソウル)で病気のため急死してしまいます。
その後、株式会社立石商店は長男・信吉が引き継ぎますが、太平洋戦争の敗戦によって、朝鮮で事業を手掛けていたことから、全ての資産を失い解散しました。
良雄は事業理念として「商売は金もうけではなく、国民の1人でも多くの人の生活維持に貢献することであり、それによって、正当な利益だけをいただく営みである」という考え方を持っていました。ろうそく事業において、原料の値上げで他社が製品を値上げする中で価格を据え置いたというエピソードも伝わっています。
名残公民館の傍らに立つ記念碑は、玄界灘を渡り活躍した立石良雄の業績を今に伝えています。
(文化財職員・池田)
写真出典=立石信義『「盛運・強運・幸運」石油と海運の三代記l』
このページに関するアンケート
このページに関する問い合わせ先
教育部 世界遺産課
場所:海の道むなかた館
電話番号:0940-62-2600
ファクス番号:0940-62-2601