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時間旅行ムナカタ第77回「大島に残る2か所の砲台跡勢力拡大と本土決戦準備」

更新日:2021年7月29日

『新修宗像市史』原始・古代部会から

原始・古代部会では、考古学と歴史学(古代史)をもとに、主に古い時代を対象として記述していきます。ところが、今回の記事は昭和期に造られたモノがテーマです。「はて?」と思われるでしょうが、考古学は対象とする時代を限定しません。新しい市史では、廃絶した建物や道具など、近代の遺構・遺物も調査しています。そのなかから、明治期からアジア太平洋戦争期までの戦跡(戦争遺跡)の一つである、大島の砲台跡を紹介します。

 

大島砲台

大島砲台跡は、正面に沖ノ島、左に長崎県の壱岐島、右に山口県の蓋井島(ふたおいじま)など、玄界灘と響灘に浮かぶ島々が一望できる、島北部の丘陵上にどっかりと座を占めています。ここは、旧日本陸軍が下関要塞(ようさい)の一部として建設したものです。

砲台跡には、20キロ以上先まで弾が届く大砲が据えられていた4基の砲座跡のほか、観測所跡、弾薬庫跡、サーチライトの格納庫跡や発電所跡など、昭和期の沿岸砲台が備えた施設が丸ごと残っています。国内の軍事施設などは戦後に放置され、草木が茂って近寄れないところがほとんどです。しかし、大島砲台跡は公園として整備されているので、誰でも簡単に見学することができます。

 

上陸軍を迎え撃つ地下砲台

最近、板木(いたぎ)と呼ばれる島の西岸部で、これまでほとんど知られていなかった地下砲台が見つかりました。この砲台跡は、アジア太平洋戦争末期に造られました。いわゆる本土決戦に備えて、福間海岸(福津市から新宮町)に上陸しようとする艦船を、横から砲撃する役割を担っていました。また、敵の攻撃を防ぐため、丘陵を貫いたトンネルで、島の内陸側から、海側に開いた砲座部につながっています。大砲が据えられた砲座部は、コンクリートで補強されています。しかし、セメントを節約するため、島の海岸で採れる石が多く混ざり、強度は明らかに低く見えます。

 

日本の情勢を語る2カ所の砲台跡

大島に残る2カ所の砲台跡で興味深いことは、砲台建設という行いが、日本の当時の情勢を強く反映していることです。島北部の砲台跡は、日本が中国大陸に積極的に進出していた1936(昭和11)年に造られ、大陸と日本本土を結ぶ海上交通路を保護することが目的でした。そのため、同じ玄界灘の沖ノ島にも同様の砲台が建設されています。一方、島西岸の地下砲台は、連合国軍の日本本土への上陸が差し迫った1945(昭和20)年に造られたもので、劣勢な状況下で上陸軍を迎え撃つことが目的です。そして、当時の資材不足が砲台の構築状況に表れています。

先の大戦では、日本人だけで約310万人もの死者が出たとされます。多くの人命が簡単に失われる戦争は、歴史のなかでも特に悲惨な出来事です。宗像市周辺でも、下関から釜山に向かっていた客船「崑崙丸

(こんろんまる)」が沖ノ島沖でアメリカ軍潜水艦に撃沈され、500人以上が犠牲となりました。そうした当時の情勢を直接感じることができる戦跡は、戦後72年を迎えるいま、戦争経験者の減少とともに、社会的に注目されています。

(原始・古代部会執筆者池田拓)

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市史編さん事務局
電話番号0940-62-0211

  • 玄界灘に臨む砲台跡(破線の場所)からは、今でも行き交う船舶が見られますの画像
  • 福津市沖(手前方向)を向いている大島西岸の地下砲台跡の画像

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