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時間旅行ムナカタ第36回「黒田官兵衛、宗像へ」

更新日:2021年7月28日

平成26年NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」が始まり、黒田官兵衛への注目がますます高まっているようです。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など誰でも知っている英雄武将たちではなく、彼らを陰で支えた裏方の黒田官兵衛を主人公に据えるとはとてもユニークです。官兵衛ブームの到来です。

黒田官兵衛、宗像

軍師黒田官兵衛とは

福岡藩の藩祖とされる黒田官兵衛は、天文15年(1546)播磨国(はりまのくに/兵庫県姫路市)に生まれました。本名は孝高(よしたか)、通称名として官兵衛の他、出家後の号である如水(じょすい)がよく知られていますが、ここでは官兵衛に統一して表記します。

さて、官兵衛は播磨国小寺氏の家臣でしたが、織田信長の才能に着目して主君と共に接近し、小寺氏の滅亡後は織田家臣として豊臣秀吉の配下になります。やがて官兵衛は数々の戦で軍師としての才をいかんなく発揮し、信長亡き後には秀吉の天下取りをサポートしました。

天正15年(1587)には九州平定の功績で豊前12万石を与えられますが、やがて家督を息子長政に譲り、自らは秀吉の側近として仕えていました。

官兵衛、筑前国へ

秀吉が亡くなった後、慶長5年(1600)に起きた関ヶ原の戦いでは長政が手柄を立て、勲功として家康から筑前国を与えられたのを契機に、官兵衛も福岡に移りました。以後は、中央の政治に関わることなく隠居生活を送り、福岡入りして約3年後の慶長9年(1604)に亡くなり、崇福寺(そうふくじ・福岡市博多区)に葬られました。

妻は正室光(てる)ただ一人で、生涯側室を持たず、愛妻家としての側面も知られています。

官兵衛、筑前国

黒田家と承福寺

官兵衛ゆかりの地は、私たちの住む宗像市にも存在します。その一つ、承福寺は上八の海を望む高台にある臨済宗の寺院です。ここに、官兵衛をはじめ黒田家が発給した文書が残されていて、手厚い保護を受けていたことが分かります。

息子の長政は宗像郡だけ官兵衛が亡くなるまで検地(けんち・課税の基本となる土地の台帳づくり)を実施していないことなどから、宗像郡の多くが官兵衛の隠居領(隠居後の生計に充てた領地)であったため、遠慮されたと考えられています。

黒田家と西福寺

隣の宮若市の町おこしといえば、「招き猫」と「ほうきを持った追い出し猫」が表裏一体となったユニークな猫グッズを思い起こす人も多いでしょう。これは、旧若宮町にあった西福寺に住みついた大ネズミを、和尚さんの可愛がっていた猫が命を賭して退治したという「猫塚伝説」に基づいてつくられた縁起物です。

その舞台となった西福寺は古くに移転し、現在、浄土宗の寺院として野坂にありますが、ここにも官兵衛が残した文書の他、2通の古文書が大切に保管されています。それによると、慶長5年(1600)に官兵衛が中津から筑前入りするとき、西福寺に妹である妙円尼(みょうえんに)らと宿泊したようです。

官兵衛の文書には、干し柿などの贈答に対してのお礼と共に、宿泊の折に野坂の西福寺の竹林が気に入ったらしく「竹をよく生やしておくように」との文言がありました。激動の人生を送ってきた官兵衛は、この時に宗像の風土に癒やされ、隠居領にしようと考えたのかもしれません。

黒田家と西福寺

(文化財職員・白木英敏)

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