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時間旅行ムナカタ第27回「船海にこぎだした人々」

更新日:2021年7月28日

宗像の人々は航海技術に優れていて、玄界灘の荒波を越え、朝鮮半島や中国大陸との行き来をしていました。その航海には、「船」が不可欠です。古代から中世にかけて活躍した宗像の海人はどのような「船」を使って航海をしていたのでしょうか。

「船」の歴史

最初の船は、丸太や木の幹をそのまま利用していましたが、その後、枝やアシの束を並べて縛り「いかだ」を作るようになったと考えられています。

日本で見つかっている一番古い船は、京都府舞鶴市の浦入遺跡から発見された5000年前の「丸木舟」です。全長10メートル、幅1メートル、厚さ5ミリメートル程度で、外洋航海も可能だったと考えられています。

次に、複数の部材を組み合わせて船を造るようになります。

古墳時代のころは、丸木舟の回りを板で囲んで波よけにした「準構造船」と呼ばれるもので、全長が12メートルから20メートルのものが見つかっています。その後、次第に複雑な構造の船を造るようになります。

最終的には、平底の船底に波が入りにくいように板材を立て、仕切板で板材を支える日本独特の「和船」になりました。

それまでの船に比べ、格段に安定性が向上し、中国や朝鮮半島との航海にも使用されました。この構造は、FRP(強化プラスチック製)船が普及する昭和30年代まで引き続き使われました。

 

  • 古墳時代の準構造船
    古墳時代の準構造船
  • 筑前沿岸で活躍したテント船と呼ばれる和船
    筑前沿岸で活躍したテント船と呼ばれる和船

 

宗像の人々が使っていた「船」

現在のところ、宗像市内から「船」の出土例はありません。

しかし、私貿易(遣唐使廃止後に実施された貿易)が盛んだった宋代の沈没船が、中国の福建省泉州(せんしゅう)市で見つかっています。

全長34メートル、幅11メートル、排水量350トン、乗員60人から100人程度の船です。

構造は、V字型の竜骨(りゅうこつ=船底を船首から船尾まで貫いている構造材)を持ち、舷側板(げんそくばん=船の胴体を形成する板材)を隔壁(かくへき=船内を仕切る壁)で支える「ジャンク船」と呼ばれています。

隔壁は、水密(すいみつ)構造になっているので、1つの船室が水没してもそれ以上広がらず、沈没しにくくなっています。

また、沈没船からは将棋の駒やげたなど、日本人が使っていたと思われるものが見つかり、日本人の船員がいたと考えられています。

おそらく、宗像の海人も、このような船を操っていたと考えられます。

日宋貿易が実施された平安時代の終わりごろに、このような大きい船を国内で造ることができたのかということは分かりませんが、室町時代の終わりごろになると、2500石(こく・約375トン)積の大型船も造られました。

現在、海の道むなかた館で開催中の春の特別展「色定法師(しきじょうほうし)と日宋貿易」では、展示室の中央に「宋船模型」(蓮尾(はすお)正博さん作成、福岡市博物館所蔵)を展示しています。精密に作られていますので、当時の航海に思いをはせてみてはいかがでしょうか。

(文化財職員・坂本雄介)

  • 海の道むなかた館に展示中の宋船模型
    海の道むなかた館に展示中の宋船模型
  • 日宋貿易で輸入された中国の景徳鎮産白磁碗
    日宋貿易で輸入された中国の景徳鎮産白磁碗

 

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電話番号:0940-62-2600
ファクス番号:0940-62-2601