更新日:2021年7月28日
優れた技術を持った海女
鐘崎の海女(あま)について、江戸時代の学者である貝原益軒(かいばらえきけん)は「筑前国続風土記」の中で、「糸島から芦屋までの漁村のうち、鐘崎、大島、波津(はつ)、志賀島の村では、女の人が海女として働いている。特に、鐘崎の海女は漁が上手である」と書いています。
鐘崎は、アワビやサザエが生息する漁場が狭かったため、鐘崎の海女は良い漁場を求めて出稼ぎに行くようになりました。やがて、海女の中には鐘崎に帰らず出稼ぎ地に定住する人が出てくると、その定住地で優れた潜水技術を教えました。このような海女の出稼ぎや移住のことを「海女あるき」と呼びます。
こうして海女が移住した集落は、日本海側の各地にあり、東は石川県輪島の舳倉(へぐら)島、西は壱岐や対馬の曲(まがり)、五島列島まで及びます。このことから鐘崎は「日本海沿岸の海女発祥の地」といわれるようになりました。
江戸時代には300人
鐘崎の海女は、江戸時代には300人いたといわれています。出稼ぎ先の各浦で海女漁がされるようになると衰退し、大正6年に200人に減り、昭和13年には130人、昭和26年に29人となりました。
これは戦後、ウェットスーツの普及で女性よりも皮下脂肪が少ない男性が素潜り漁をしやすくなったことが、海女の数が減った要因だといわれています。
そして、現在はわずか2人だけになっています。
ジョウアマとガタアマ
海女は「ジョウアマ(上海女)」と「ガタアマ(潟海女)」に分けられます。
ジョウアマは沖に出て漁をするため、深く潜ることができ、ガタアマは浅い磯部で漁をします。「福岡県史」にある鐘崎の民俗調査では、ジョウアマが12尋から13尋(ひろ)(18メートルから19メートル)、ガタアマが4尋から5尋(6メートルから7メートル)潜ったと書かれています。海の道むなかた館で展示中の「水メガネ入れ箱」のふたにも12尋潜ったと書かれていて、来館した人に12尋を18メートルと説明すると非常に驚かれます。
海女の道具に見る魔よけ
海の道むなかた館では、福岡県文化財指定の海女の道具を展示しています。その中から今回、アタマカブリとイソベコを紹介します。
アタマカブリは頭部を水圧から守り、冷えないよう頭にかぶる布で、イソベコは海女が潜る時につける下着です。
アタマカブリ(福岡県文化財指定)
鐘崎の海女が、なぜこの形を魔よけとしたのかには、いろいろな説があり、定かではありません。「大」の字の魔よけの事例には、お宮参りで子どもの額に「大」や「×」を鍋墨で書くアヤツコという魔よけの風習があります。調べてみると、「大」や「×」は2つの異なる世界が交わることを意味し、転じて魔よけとされたのではないかと考えられているようです。アタマカブリの「大」の字もこのような魔よけの意味があったのではないかと考えられます。
イソベコ(福岡県文化財指定)
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